金栄太鼓台 飾り幕

飾り幕制作 / ㈱ 金 鱗

布団締め

■台場、四本柱、重受け、ソリなど一式を平成24年に新居浜市・萩生西太鼓台様より購入。

 

■担き棒4本を平成25年、土居、北野太鼓台様より購入。

平成25年、宮本卯之助商店・欅製・2尺4寸を購入。

金栄太鼓台 新調記念石碑

以下、飾り幕の説明は「新居浜史談会」様の第390号より抜粋、参考に記載しています。

毛利軍襲来(高欄幕)

新居浜市の沖にある御代島に迫りくる毛利軍の討手の大将・小早川隆景とその戦船を表している。船にある家紋は小早川家の家紋である左三つ巴紋を表している。毛利軍は天正13年6月28日未明、約3万の兵を招集して小早川隆景の兵船400隻が御代島沖に現れた。(御代島は現在、住友化学工場の構内にあり、埋め立てられて陸続きになっているが、昔は島であった) 毛利軍と(小早川軍)と郷土連合軍との戦の始まりを示しています。

龍頭(高欄幕)

右向きの阿形の龍。胴部には雷光があしらわれており、龍は東予に来襲する毛利軍の軍勢を表している。

金子対馬守元春と長宗我部の援軍(高欄幕)

左に金子備後守元宅の弟、金子元春、右に長宗我部元親から遣わされた土佐の援軍の武将を表わしている。金子元春は兄、元宅から金子城を任せられ、城将として土佐援軍300騎と合わせて550余騎をもって毛利軍1万と吉川軍5千余を向こうに廻して善戦したが、7月14日に落城。土佐から来た長曽我部の援軍には、片岡光網と花房新兵衛の武勇設譚が残っている。二人とも天正の陣で華々しく活躍するが、壮絶な戦死をする。滝の宮口の戦いは激戦となり、毛利軍の損害は大きく土佐軍の武勇強兵がよく示された戦いであった。激戦の地は現在、滝の宮公園入り口にある四国八十八ヶ所61番滝の宮地蔵堂があり、その傍らには1997年(昭和52年)新居浜史談会建立の「天正の陣滝の宮口」の石柱が建っている。慈眼寺境内の金子備後守供養塔の南側にはそれを守るかのように片岡光網と花房新兵衛の供養塔が並んでいる。

金子城(高欄幕)

金子氏の篭城する金子城を表わしている。金子氏の発祥の地は埼玉県入間市金子である。弘安年間に新居群新居郷に赴任し、金子と名付け金子城を築いた。幕にある城は4層の望桜型、複合式の天守に仕立てられているが、実際の金子城は都市公園のために完全に近いまで破壊され縄張りをうかがい知ることはできない。飾り幕には家紋の入った旗が配されている。3種類あるが、「三つ蜻蛉」紋と「丸の内に七つ亀甲」紋は伊予金子氏、「七つ片喰」紋は長曽我部氏の使用した家紋である。旗は篭城する金子軍と応援にきた土佐軍を象徴している。

野々市ヶ原の決戦-金子備後守元宅-(上幕)

天正の陣における西条市氷見の野々市ヶ原の戦いで、騎馬奮戦する金子元宅を表わしている。左右にいる阿吽の獅子は攻め寄せる3万騎の毛利軍を象徴している。1585年(天正13年)7月17日、郷土軍は2千騎余といわれ、氷見の高尾城に篭るが、支えきれず、城に火を放ち落城。同28日生き残りの将兵は野々市ヶ原で最後の決戦を挑む。戦いは凄惨を極め、新居、宇摩の城主や名だたる将士は討ち死にした。総大将の金子元宅も身に27ヶ所の傷を負い、遂にある荒寺にて自害した。側近の家来は首を持ち帰り、現在の慈眼寺の裏山に葬ったという。

戦う荒法師(上幕)

獅子と戦う僧侶。獅子は毛利勢、僧侶は寺院勢力を表わしている。在地の僧侶600余も天正の陣には郷土軍に協力した。その中で有名なのは、徳常寺東庵(西条市大町)の僧任瑞である。任瑞は怪力無双の僧で、大石を次々と投げ込み、華々しく討ち死にしたという。

舞い踊る小早川隆景(上幕)

野々市ヶ原の白兵戦の後、小早川隆景は死体600を首実検し、これを一墳に葬った。この時、隆景は金子備後守のために仮墓を作り、鎧の上に法衣をまとい、戦死した将兵の供養の為に弔い舞を舞ったという。隆景が弔い舞を舞った折、家来は有り合わせの陣太鼓を叩いて奏でた。その併せ太鼓の陰陽のリズムが「トンカカ、トンカカ」と聞こえるので、一般に「トンカカサン」と呼ばれている。

龍に化現、昇天する金子備後守(上幕)

高尾城攻防戦にて討ち死にして、飛龍に変化して天に昇る金子元宅を表わしている。龍は上の幕の小早川隆景に捲き付くような連結構図に仕立てている。

金栄太鼓台・飾り幕の由来

金栄太鼓台の飾り幕には地元の歴史に残る【天正の陣】が描かれています。

 

天正の陣 】

 

天正の陣(てんしょうのじん)は、1585年(天正13年)に全国統一を目指す羽柴秀吉(豊臣秀)の命を受けた中国・毛利氏の小早川隆景率いる軍勢が伊予国新居郡(現在の愛媛県新居浜市)に上陸し、金子城城主 金子備後守元宅率いる地元勢力を圧倒的な戦力で制圧した戦。「天正の陣」の呼称は、伊予側からのものであり、個々の戦闘については、金子城の戦い、高尾城の戦いなどとも称する。秀吉による四国攻め(四国平定戦)の一連の戦いのなかのひとつ。

1585年7月、毛利輝元は一族の小早川隆景らを四国討伐に向かわせる。総勢3万余の大軍が瀬戸内海を渡り新居郡内の御代島・沢津(共に現新居浜市)の二手に分かれて上陸し現地の城を破り進軍、新居の総大将 金子元宅率いる金子城を目指す。

金子城には周辺の城から武将が兵を率いて集結していたがその数わずか2千、戦況不利は誰の目にも明らかである。敵方に降伏する武将も現れた。かねてより伊予守護の河野氏を通じて毛利氏と友好関係を築こうと働いていたと思われる金子氏には、この軍に降伏し毛利の軍門に降る選択肢もあったであろうが、主である土佐の長宗我部元親に義理立てし徹底抗戦を決意。配下の武将もこれに従い金子城の志気は高まった。元宅は城を弟の対馬守元春に託して全軍指揮のために守護代 石川氏の高峠城に入り、兵を氷見(現西条市)の高尾城に集めて軍勢を整えた。

金子城では二重三重に毛利軍が取り囲み容赦ない総攻撃が始まった。これに対し死をも覚悟して迎え撃つ金子軍の攻撃も激しく、また金子氏を慕う領民達も決起し毛利軍に非正規戦を仕掛けたと思われる。主だった神社仏閣も焼き討ちに遭うなどして一帯は壮絶な修羅場と化した。しかし多勢に無勢、やがて金子軍は力尽き金子城は落城した。

負け戦ですが、約3万の軍勢に降伏することなく、たった数千の勢力で立ち向かった勇敢な戦でもあります。この歴史は今でも滝の宮公園や、慈眼寺にて確認できます。

地元の歴史を太鼓台の幕に使用し、これから先も歴史を語り続けていきたいと思っています。